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コリアンや左翼マスコミの主張は何だか変だぞ。と思ったことはありませんか?自分達の基準や利害を優先して、嘘と誇張で日本の国益に反することを平気で行っているようにも見えます。そこでこのページでは、彼らの主張と相反する資料を集めて編集し、別の立場から見てもらうことにしました。あなたは第三者として双方の違いを比較検討して、正しいと思われるものを自分の意見の参考としてください。



植民地統治の検証 1 反日史観を糺す

■このページ内の項目へジャンプします

ソウル南大門付近の変遷を見る / 鉄道・道路の建設 

土地の侵奪 / 飢餓輸出 / 農民層の没落 / 森林の伐採  

 経済活動の抑圧 / 会社設立の制限  


植民地統治の検証2

ハングル・朝鮮史教育の禁止 / 創氏改名と皇民化政策 
神社参拝の強制 / 強制連行 / 従軍慰安婦
大東亜戦争と上海臨時政府

植民地統治の検証

植民地支配の総論 / 日本の善政1 / 日本の善政2
独立による財産請求権の清算
日本が朝鮮にした数々の悪行を懺悔しよう!


1910 韓国併合、総督府設置、土地調査事業はじまる(〜18)
1912 清朝滅亡し中華民国成立
1914 第一次世界大戦勃発
1918 日本で米騒動、ウィルソン民族自決を提唱
1919 三・一事件おきる、文化政治開始
1920 産米増殖計画はじまる
1923 関東大震災で朝鮮人殺される
1929 世界恐慌はじまる
1931 満州事変勃発
1932 満州国建国
1933 農村振興運動はじまる
1937 盧溝橋事件おこる
1938 陸軍特別志願兵制度実施
1939 日本企業による労働者募集はじまる
第二次世界大戦はじまる
1940 創氏改名実施
1941  真珠湾を攻撃し日米開戦
1942 官斡旋による労働者募集を行う
1944 国民徴用令を朝鮮に適用
1945 日本敗戦で朝鮮解放
1948 大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国成立
1950 朝鮮戦争おきる
1965 日韓基本条約調印

序、ソウル南大門付近の変遷から日本の朝鮮統治をみる
日本の朝鮮統治を検証するには、現代の価値観から日本統治時代を非難するのではなく、当時の時代背景を考慮して、李朝時代から日本統治時代になって何がどう変わったかを批評すべきだ。その意味で南大門は、ソウルのランドマーク的建造物なので写真が数多く残っており視覚的な比較に適している。


1897年、イザベラ・バード「朝鮮紀行」から
ソウルには芸術品がまったくなく、公園もなければ見るべき催し物も劇場もない。他の都会ならある魅力がソウルにはことごとく欠けている。古い都ではあるものの、旧跡も図書館も文献もなく、宗教にはおよそ無関心だったため寺院もない、結果として清国や日本のどんなみすぼらしい町にでもある、堂々とした宗教建築物の与える迫力がここにはない。

撮影年度は不明であるが、江華島条約で朝鮮が開国したのが1876年だからそれ以降であろう。首都ソウルは市内が城壁で囲まれた囲郭都市で、南大門はソウル四大門の一つで20万都市の正門であった。王宮へ向かう大通りに沿って粗末な藁葺き屋根の家が建ち並び、衰退した国力を物語るような町並みが広がっていた。
写真2枚 「映像が語る「日韓併合」史」 辛基秀 1987年 労働経済社より


1880年の南大門路

1897年 1 / 1897年 2 (着色) / 1897年 3

1908年 / 電車開通当時

1930年頃

南大門外より南大門を望む / 京城駅から南大門を眺める

南大門内より商品陳列館を見る / 南大門通3丁目

南大門通りから黄金町通へ / 南大門付近3枚(1930年)

1930年 京城(ソウル)南大門通黄金町交差点付近 
日本統治時代になって発展したのは一目瞭然  路面電車の線路が見える

Link 韓国・国史編纂委員会HP 韓国の古写真
Link 松原孝俊の世界 日本統治期の朝鮮半島の写真あれこれ



写真で比較すると発展の度合いが一目瞭然であるが、写真では住民の生活の雰囲気まではなかなか伝わってこない。そこで李朝時代と日本統治時代の紀行文から時代の雰囲気を感じていただきたい。
「朝鮮紀行」 イザベラ・バード 1897年 (時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫)
首都の第一印象(李氏朝鮮時代)

都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい。礼節上2階建ての家は建てられず、したがって推定25万人の住民は主に迷路のような「地べた」で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た個体および液体の汚物を受ける穴か溝で狭められられている。悪臭紛々のその穴や溝の横に好んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬もちでかすみ目の大きな犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしたりしている。路地にはまた「小間物」とアニリン染料で染めたけばけばしい色の飴を売る行商人もいて、溝の上に板をさし渡し、おそらく1ドル程度の品物を並べている。こういった溝に隣接する家屋は一般に軒の深い藁ぶきのあばら家で、通りからは泥壁にしか見えず、ときおり屋根のすぐ下に紙を張った小さな窓があって人間の住まいだと分かる… かわら屋根の反り返った上流階級の家庭でも、通りから見た体裁の悪さという点では何ら変わりがない。

商店も概してみすぼらしいのは同じである。在庫品全部を買っても6ドル程度の店がたくさんある… おもな商品は白い綿地、わらじ、竹の帽子、素焼きのかめ… 大量の干した海藻と干しきのこといったもので、その他に安価な灯油ランプ、手鏡、安物くさい花瓶などといった外国製の不要品から一番くだらないものばかりを選んできたような品々は、どれをとっても悪趣味のきわみとしか言いようがない。黒いうるしに貝の真珠層か何かを埋め込んだ古風なデザインの象嵌製品にはときとして掘り出し物がある。金糸の刺繍をほどこした絹地もあるが、デザインがまずく、色合いはなんともすさまじい。
(中略)
南山の美しい丘からはソウルの全景が眺められる。周囲の山々は松の木立が点在するものの、大部分は緑がなく、黒い不毛地のうねりとなってそびえている。こういった山々の取り囲む盆地の中に20万の人々がひしめきあっている。城内は大半が藁ぶきの低い茶色の屋根の海で、林も広場もなく、単調きわまりない。この茶色の海から突き出ているいるのが城門の反り返った二重屋根と灰色花崗岩の王宮の石塀で、その中にさまざまな殿舎の大きな屋根がある。東の城門から西の城門へと広い通りが市街を貫き、この通りから南の城門へともう一本の通りが走っている。中央の大通りからはさらに幅95ヤードの広い道路が王宮へと向かっている。常にじゃま物のないようきれいに片付けられているのはこの通りだけで、ほかの街路は屋台店が両側に並び、通行用には狭い道幅しか残っていない… しかし何百本とある、もっと狭くてしかもその幅が軒やどぶで狭められている路地では、人間どうしがすれ違うがやっとだ。何マイルも続く土壁と深い軒、どろどろとした緑色の溝、黒ずんだ排気口の間には、男性の住民と荷物の運搬人以外、動くものはあまりない。どの家も犬を飼っており、四角い穴から犬は家に出入りする。よそ者が来れば激しく吠え、傘をふると逃げていく。犬はソウル唯一の街路清掃夫であるが、働きはきわめて悪い。また人間の友だちでもなければ、仲間でもない。朝鮮語をはじめ人間の話すあらゆる言語に取り合わない。夜間吠えるのはどろぼうがいるからである。飼い犬といえどほとんど野犬にひとしい。若い犬は春に屠殺され、食べられてしまう。

昼間水をくんだり洗濯したりする女性の多くは下女で、全員が下層階級の人々である。朝鮮の女性はきわめて厳格に家内にこもっている。おそらく他のどの国の女性よりも徹底してそうではなかろうか。ソウルではとても奇妙な取り決めが定着している。8時に《大釣鐘》が鳴り、それを合図に男たちが家に引きこもると、女たちが家から出て遊んだり友人を訪ねたりするのである。私が到着したのもそんな時間帯であり、まっ暗な通りにあるのは、もっぱらちょうちん片手の召使いをお供にした女性の姿だけという異様な光景であった。ただし、盲人、官僚、外国人の従僕、そして処方箋を持って薬屋へおもむく者はこの取り決めから除外される。投獄を免れるためにこういった肩書をかたる場合は多く、長い棒を手に入れて盲人のふりをする者もままある。12時にもう一度鐘が鳴ると、女たちは家にもどり、男たちはまた自由に外出できる。ある地位の高い女牲は、昼間のソウルの通りを一度も見たことがないと私に語った。

夜間の静けさはきわめて印象的である。鼻歌ひとつ、咳ひとつ聞こえず、ひそとも人の気配がない。通りに面していて、なおかつ明かりのともった窓というのがほとんどないので、暗さも徹底して暗い。静寂を破って届く《大釣鐘》のゴーンという低い音には、不吉ともいえる響きがある。

白人が優越感で東洋人を見下しているのではないか、と感じられた方は同じ著者がほぼ同時期に日本を訪れ、「日本奥地紀行」(平凡社東洋文庫)を書いているので読み比べるとよい。「朝鮮紀行」とは反対に日本を過賞しており、偏見でもって「朝鮮紀行」を書いたのではないことが分かる。しかし文明開化後の日本と朝鮮を比較するのは不公平なので、幕末の日本を記した「ペルリ提督日本遠征記」と比較してみよう。

▽ 1910年韓国併合 ▽

日本統治時代になって明るくモダンになったソウル。特に女性を比較していただきたい。まさに隔世の感がある。
「京城ローカル・春の巻」 1938年 京城ローカル社 (「ソウル都市物語」 川村湊 2000年 平凡社新書より)
街の表情(京城)三越前から

カールもあざやかなモガ(モダンガール)が足をのばしてぺーブメントを踏む、水々しい高島田を真白い顔に乗せてゲイシャガールが人力車に乗つて悠々と行く、チマをスカート風にきりつとさせて、ハイヒールの朝鮮の娘さんが颯爽と行く、白いツルマキを着込んだオモニーがゐる支那人がゐる、アメリカ人がゆくそしてまた、彼氏彼女がゐる。まこと本町は流れる人の波に明けて暮れる。あの狭い、ウナギの寝床みたいな街といふなかれ、大阪なら心斎橋通りといつた感じではないか。先づ本町をブラブラしやうといふ者は、定石に従へば電車も自動車も鮮銀と三越と郵便局とに囲まれた広場に降りる、この辺りは京城のセンターである。ビルディングがずらりと南大門通りの街をつくつて、近代的文化都市らしい香ひを発散、南大門方面から来た電車は、黄金町から東大門行と鍾路から東大門行とがチャンポンにチンチンいはせる、北へは長谷川町が大平通りに抜ける。(中略)「デパート」といふ言葉は現代人の感覚に快い響きを伝へて魅惑的である。数百といふ美しい結婚適齢期のショップガールが、明るい照明の売り場に水々しいフルーツのやうな新鮮さで溌剌と商品の渦の中を泳いでゐる。丘のやうに積まれ、手際よく飾られた商品のモードがそれぞれ媚態的ポーズで演じ出すデモンストレーション…

少なくとも、ソウルが日本時代になって発展したのは、誰も否定することはできない。 で、↓


このページの見方

韓国人の主張

それに対する反論



曰く、 日帝の植民地支配は、人類史上最悪の搾取だった。
曰く、 世界でもっとも残虐な極悪非道の日帝植民地統治。
曰く、 日帝は韓国人の集団奴隷化を狙った植民地支配を行った。
曰く、 日本は朝鮮その他のアジア人民の血の海からはい上がった悪の帝国である。
曰く、 日帝がアジア人民に行った犯罪行為について言えば、それはどのような最新のコンピューターを総動員しても計算できない途方もないものである。

わ、笑うな〜 彼らは本気(マジ)なんだから。 さて、上記の韓国(朝鮮)人の主張に対して、『日本は植民地時代に朝鮮(韓国)に対して良いこともした』と少しでも反論を呈すれば、袋叩きにあう状況がマスコミによってつくられていることから、大多数のマスコミも反日左翼や韓国(朝鮮)人と同じ歴史認識だと考えられます。しかし、彼らの主張を検証してみると、日本の行為を全面否定するためか、話のすり替えや誇張・でっちあげを少なからず行っていることが分ります。つまり"日本は極悪非道な植民地支配国であった"という結論が最初からあり、それに合わせて歪んだ見方を一方的に述べているのです。それでは、"日帝の悪"とされるものを李氏朝鮮時代の状況をおり込みながら個別に検証していきます。

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▼ 鉄道・道路の建設
総督府の鉄道・道路・港湾の建設は、朝鮮人の生活向上のために行ったのではなく、その目的は、物資の大量輸送を可能にして経済的収奪を強化することであり、中国大陸侵略を画策する日帝の兵站基地にするためでもあった。

李朝時代の劣悪な道路・交通状況
「朝鮮紀行」 イザベラ・バード 1897年 (時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫)
道はとにかく悪い。人工の道は少なく、あっても夏には土ぼこりが厚くて冬にはぬかるみ、ならしてない場合は、でこぼこの地面と突きでた岩の上をわだちが通っている。たいがいの場合、道といってもけものや人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路にすぎない。橋のかかっていない川も多く、橋の大半は通行部分が木の小枝と芝土だけでできており、7月はじめの雨で流されてしまう。そして10月なかばになるまで修復されない。地方によっては、川にさしかかったら浅瀬を渡るか渡し舟に乗るかしなければならず、これには必ず危険と遅れがともなう。首都に中心をおく《六大道路》ですら、橋はふつう渡るまえにまず馬や人間の重量に耐えられるかどうかを馬夫が確かめるほど、もろい状態であることが多い。山間部では、道とはおおかたが渓流の川床に丸石をばらまいたもの以外のなにものでもなく、最良の場合でも、冬場のソウル・済物浦(ソウルの外港)間のように、ぬかるみの深さが1フィートから3フィートにおよぶ湿地帯がある。こういったいまわしい乗馬道は、わたしも広くたどったが、朝鮮の発展の大きな障害のひとつである。
(中略)
(朝鮮東部の都市元山へ向かう幹線道路を行く)道路が広くなると、その中央には固まった泥の山がつづき、両側には同じく固まった泥がうねになっている。道路が狭まれば、これはたんなる田んぼの畦道にすぎない。橋はとりわけ劣悪である。あまりに老朽化しているので、馬夫たちが馬を歩かせたがらず、どの川もじかに渡ったほどである。それでもこの道路は、わたしの踏破した三ヵ所がすべて悪路だったにもかかわらず、東海岸と西海岸からの貨物が行き来する第一級の幹線道路なのである。

「朝鮮の政治社会」 グレゴリー・ヘンダーソン 鈴木沙雄・大塚喬重訳 1973年 サイマル出版会
英字新聞「コリアン・リポジトリィ」(1892年4月)は平壌と大邱にはそれぞれ7万5千人が住んでいた(ソウルに次ぐ人口)ことを報じているが、ちょうどこの時期に大邱(テグ、慶尚北道中心都市)に住みついた宣教師アダムス一家は、彼らの輸入した自転車が、悪路のため思うように乗りまわせなかったことを記している。

「鎖国の汎パラダイム」 金容雲 1984年 サイマル出版会
『港には桟橋がなく、人の背におぶさって陸にあがるほかない。馬は跳び下りるため足を折ることが往々にしてある』(朴斉家「北学議」)この文の内容から察すると、李朝の末頃に至っても、港はほとんど原始状態であったことを示している。1854年、当時の香港総督が本国の外相に送った手紙には次のような部分がある。『……韓国は非常に衰退し悲惨な状態にある。……通信は極悪、航行可能な河川はごく限られている』

「アリラン峠の旅人たち ―聞き書朝鮮民衆の世界―」 安宇植訳編 1982年 平凡社
(灰色文字は管理人注)
(李氏朝鮮では道路が整備されず交通網が発達しなかった。そのため物資運搬のための荷車も運行できず、物資はもっぱら褓負商(ほふしょう)と呼ばれている行商人たちがチゲという背負子で運んでいた。それはあまりにも過酷な仕事であった。)
ある旅行者はこの、歩行にかかわるこの国の交通事情について次のように書いている。
都会の周辺を脱け出すともう、まったく道路の体裁は整っていない。ほとんどが山野の自然の状態のままにおかれ、人々に踏まれて自ずと作られた道路であるため、道幅がすこぶる狭く、かろうじて牛馬を通すことができる程度しかない。いわんや河川の状態を見るにいよいよ不便で、橋梁の架設された所がきわめて稀なため、やむをえず狭いどぶ川を素足になって渡らねばならない。広いどぶ川には不安定ながらも飛び石伝いの橋や、渡し舟があってどうやら素足になることを免れる、といったていたらくである。ひとたび夏の長雨にでくわせば、河川は氾濫し、泥水が丘陵を覆い尽くし、波は矢のごとく広がっていく。これはとりもなおさず、山村の荒廃したことに起因するもので、そんな時に河川を渡ることは到底不可能なため、旅人は虚しく堤防で右往左往し、水のひく日を待ちわびるほかない。
(中略)
彼ら(褓負商)はしばしば、山奥で虎に襲われて食い殺されたり、堀に落ちて死んだりした…  (褓負商だった)尹求礼老人には左足の小指から3本は跡形もなく。右足は親指しかの残っていない。つまり左右合わせて3本というわけである。けれども歩くことには熟達していたから、今でも薪をたっぷり担いで運び出すそうである。足の指は、冬場にしばしば凍てついた雪の道を歩いたうえ、満足に凍傷の治療が施せないため、一本また一本ともげてしまうのが普通だと語る。(朝鮮の冬はソウルあたりでも河川が凍結するほど厳しい。褓負商は厳冬期だからといって仕事を休めるわけではないのである。)

仮に、この状況を総督府が放置したままであったならば、現代韓国人は総督府の施策を非難するであろう。韓国人の主張は、いちゃもんレベルの話だ。

鉄道の開通を単なる交通問題と片付けてはならない。その影響は新時代の象徴として、朝鮮に社会変革をもたらしたほどなのである。
「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
李朝時代の朝鮮半島は、そもそも交通、流通が未発達な社会であった。それも朝鮮の国家安全を守る鎖国攻策の一つであった。『朝鮮交通史』によれば、主要幹線街道においてさえ、辛うじて人馬を通しうる個所も少なくなく、河川には橋梁の架設がなく、徒歩または渡し船に頼った。道路事情が悪いため、旅行は徒歩、カゴまたは駄馬により、貨物の輪送もかついだり、駄馬によるほかなく、駅站の後を受けてできた郵逓局の逓送も駄馬及び歩行の両方法を用いた。だから大量貨物の遠距離輪送はほとんど不可能であった。

朝鮮半島での日本の鉄道建設は、「朝鮮人の抵抗を抑え込み、大陸侵略の橋頭堡」とするためとか、「台湾での鉄道建設は南方侵略の南進基地」云々という進歩的知識人の告発は多い。日帝が朝鮮半島で道路建設を行なった真の目的とは、日本軍の移動と穀物収奪、運搬、そして警備が主眼であった、という見方もある。あるいは交通網の拡充は、大陸侵略のための軍事的施設、植民地収奪を強行するためにつくられたものといわれる。いわく、鉄道は中国大陸侵略への「幹線」であり、建設された第一級国道は軍用道路である云々。日本人の鉄道建設への狂卉は、それは軍事的考えや軍主導の下で進行されたものとよく指摘されるが、それはそのとおりであろう。列強諸国の時代では、鉄道はただの「産業開発」目的というよりも、多元的な目的を持つことが当然だったわけで、どの国家もそうであり、シベリア鉄道でもそうであった。

しかし、朝鮮半島では東西南北に貫通する鉄道の出現によって、政治上、軍事上、社会上だけでなく、人文地理的にも大きな変化が起こっていた。それは今までの村社会に閉じ込められている自給自足の原始的社会から脱却し、産業の発達、単一市場の形成だけではない。日本から新しい、先進的な技術、資本(ヒト、モノ、カネ)、さらに情報の流入があった。近代社会として成長した人的交流と物的流通によって、国土観も変わり、朝鮮人相互の紐帯を強固にし、朝鮮人に一つの民族としての自覚をも与えたのである


朝鮮半島がアジアで第二の交通網整備地域となったのは歴史的事実である。

李氏朝鮮の社会資本は無きに等しかった。
「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
中央集権体制国家の中華帝国にならって、さらに極端な中央集権体制を敷いていた「小中華」は、すべての国富をソウルに一極集中し、牢固たる村国家をつくったものの、国富のシンボルであるはずのソウルは、決して「栄華の都」ではなかった。いかに時代の流れに取り残されていたのか、数多くの記録が残されている。

統監府時代に、京城控訴院判事として韓国政府に招耽された山口貞昌氏の回顧(明治四十一年六月)によれば、赴任した当時、「道路は狭隘で、しかも糞尿は至る処道端に満ちて居るという有様でした。井戸水は混濁していて風呂に入れば茶色の湯で、かえって体が汚れる様な感を催し、飲料水は石油の空罐一ぱい何銭で買って使用するという状態で、電燈は未だ一般に普及せず、我々の借家にはその設備がなくランプを使っておりましたが、冬になると寒気が烈しいので、石油が凍ってだんだんと光が薄暗くなり、仕事ができないほどでありました」(『朝鮮における司法制度近代化の足跡』友邦協会編)だという。

朝鮮総督府は、そのような社会に上下水道をつくり、道路をつくり、近代都市をつくりあげたのだった。もっと知らなければならないのは、朝鮮の都市計画は、総督府の予算からではなく、すべて日本の国家予算で施行したものであったことである。



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▼ 土地の侵奪
〔土地の侵奪〕 日帝の植民地支配下で、わが民族は、とくに経済的な収奪による大きな苦痛を強いられるようになった。この中でもっとも大きな被害を受けたのは、土地の侵奪だった。日帝は国権を奪った直後から、いわゆる土地調査事業という名目で、農民の土地を申告するように通達した。これは土地所有関係を近代的に整理するという口実で推進された。しかし申告手続きが複雑で困難だったことや、日帝に協調しようとしない反日感惰から、多くの農民は申告をしなかった。その結果、申告されない土地は地主がいない土地とされ、総督府の所有となった。また、従来の王室か公共機関に属していた多くの土地が総督府の所有になったし、全国的に分布していた門中の土地や村の共有地も大部分没収された。朝鮮総督府はこれらの農地を、日本人が経営する土地会社に払い下げたり、韓国へ来る日本人に安い値段で売り渡したりした。その結果、韓国の農民はさらに貧困になり、土地を奪われた農民は山奥へ人って、火田民(焼き畑農耕民)になったりした。新しい生活の基盤を探して満州など国外へ移住する者も増加した。 (韓国の中学校用国定歴史教科書1997年版より)

土地の侵奪は、李朝時代に両班によって行われてきた悪弊の一つであった。
「韓国は日本人がつくった ―朝鮮総督府の隠された真実―」 黄文雄 2002年 徳間書店
両班こそが土地強奪の犯人

「日帝」による朝鮮半島の土地強奪は、「日帝七奪」のひとつとして数えられている。よく言われる例は、日本人が小高い丘にのぼってあたりを見渡し、土地を指さして手当たりしだい良田を奪っていったという話だ。しかし、これはおそらく両班時代の「土地強奪」から連想して日本人に罪をなすりつけたものであろう。

ダレ神父は「朝鮮事情」(1874年)のなかで両班の土地強奪の実態を次のように述べている。『両班は世界中でもっとも強力にして傲慢な階級である。彼らが強奪に近い形で農民から田畑や家を買うときは、ほとんどの場合、支払いなしですませてしまう。しかも、この強盗行為を阻止できる守令(知事)は一人もいない』

戦後、日本人が韓半島で行ったといわれる土地強奪は、ほとんどがこの両班をモデルにしてでっちあげられた作り話である。そもそも、日本とは法治国家である。この大前提を、戦後の韓国知識人はどうやら忘れているようだ。

「歴史民俗朝鮮漫談」 今村鞆 昭和三年(1928年) 南山吟社
回顧二十年前(今村鞆は韓国併合以前の統監府の時代からの官吏であった。)
新政の謳歌

従来官吏や両班やにイジメられて居つた良民は、日本官吏の配置と共に、特に新警察のために、保護を受けて、その恩恵に浴する事となつたから、その喜びは非常なものであつた。懸倒を解くとか、或は塗炭の苦より救ふといふ語があるが、実際に於て此の語に丁度ハマルものであつた。

鳥致院付近の村で殺人犯があつた、警察が往つた時には一部落逃亡して一人も居なかつた、元は殺人があれば、郡守(地方役人)が大勢の人を引き連れ、食ひ倒し、飲み倒し、かつ無辜(むこ(の民))を捕へ、種々の誅求の種にしたからである、しかして其時、告示をして、旧来の如く人民に迷惑を及ぼさぬと諭して、安心して皆帰つた例がある。

或る処で農民が牛を盗まれ、その泥棒を警察署で捕へ、牛を被害者に還付せんとした時に、自分の牛に非ずとしてドーしても受取らなかつた。もし受取れば数倍の金を後々より取らるると信じたからである、トウトウ、牛を受取つても後より一文をも誅求せぬといふ証文を署長に書かしてようやく牛を受取つて往つた、しかして不思議がつて居た。

自分が出張中忠州付近で両班が農民の山の中へ、勝手に墓を作りその山を横占せんとし、紛擾をかもせる所へきかかり、その両班に、決して右の如き非行は相成らぬ旨を言渡した、その時一部落の人民は、五十人ばかりイクラ止めても喜んで送つて来た。

右の如き例は、枚挙に遑(いとま)の無い程あつた。また裁判の公平土地調査の為め、所有権を侵害される事の無くなつた事等は、民衆の大に喜んだ事であつた。

両班の動静

良民は新政を喜んだが、両班儒生の大多数は、新政に反対した。時勢を解した両班は、従前の行動を改めたが、中には民衆の無知に乗じ、依然として昔ながらの、横暴振を逞(たくまし)ふして居る者も多かつた。下民の身分を省みず、両班の前で喫煙したとか、馬で乗打をしたとか、いふ様な、良民が時勢に目醒めてする、従来の習俗に反する行為を咎め立てて、罵倒殴打する、等の事により、債務のカタに人や馬や財産を強収拉去する、なほ甚だしきは、土地の境界不明に乗じ、良民の土地を侵犯するといふ、慣行手段の悪事を公行して居たが、被害人民は、なほ十分に官庁を信頼せずして、申告しなかつた。この土地侵略の悪風は、土地調査事業完成の為根絶し、良民は該事業を、心から良制なりとして謳歌した。(中略) 一体に悪両班は、自己の悪事が出来なくなりし為め、新政を呪詛して居た。

総督府の土地調査事業によって土地所有権が確立し、農民の土地所有が保障されるようになった。それにより旧両班階級による不法な土地侵奪はなくなった。

李朝時代の土地所有と利用状況
「朝鮮」 金達寿 1958年 岩波新書
元来朝鮮には土地の近代的所有はなかった。広大な土地が王室・宮院・官庁・書院・両班に属し、全体として官人層が土地に対する支配力を持っていたが、彼らは土地の管理をせずに収穫だけを取り、管理は舎音という差配にまかせきりであり、しかも舎音が何段にも重なって中間で搾取し、収租の権利の主体すら明白でなかった。一方土地を耕す農民は代々土地を耕してはいても、奴婢あるいは無権利な常民であって、その土地を自己のものとするまでには成長していなかった。土地所有そのものが未熟な状態にあったのである。したがって土地所有を証明するに足る文書・記録は整わず、面積の単位は区々であり、土地の境界もあいまいであった。


李氏朝鮮は自作農だけの国ではなく、多くが小作人でその割合はかなり高かった。当然ながら小作人に土地所有が認められることはない。
「図説 韓国の歴史」 1988 金両基 河出書房新社
晋州民乱(1862年)当時この地域の農民の農地所有関係を見ると、両班層や平民・賎民層の大部分が極端な零細農民であった。剰余生産物の蓄積が可能な中農層は全農家の15.5%ていどで、生計の維持すら不可能な貧農層が両班層では55.0%、平民・賎民階層では72.5%にもなっていた。かれらが農業生産を通して富を蓄積しようとすれば地主の小作地を借用せずにはいられなかったことを知ることができる。

朝鮮王朝末期の自作農が3〜4割で、小作農が6〜7割だったという農村調査報告は、このような現象の延長線上にあることをたやすく知ることができる。いわゆる三政紊乱(田税・軍役・還穀の乱れ)により生計に脅威を受けるのとは別に、すでにかれらはその農地所有において緊迫した状態に達していたことが知られるのである。
(中略)
乱の初期には封建官僚に対する攻撃が主であったが、乱が進行するにつれて地主層が攻撃の対象となっていった事実も、前に指摘した当時の土地所有関係において説明されうるだろう。

「日本による朝鮮支配の40年」 1992 姜在彦 朝日文庫
1918年、つまり土地調査事業の終わった年の統計によれば、
 全農家の3.3%(9万386戸)が全耕地面積の50.4%を所有(地主)
 全農家の37.6%(100万戸余り)が土地のない小作農
 全農家の39.3%(104万戸余り)が自作兼小作農
 全農家の19.6%(50万戸)が自作農
というような農家構成があらわれています。

全農家の3.3%、戸数からすると約9万戸が全農地面積の半分以上を所有しているのです。これは農家というよりも地主です。農業経営にタッチせず、じっと座って小作料を得て生活する地主層なのです。もちろんこの3.3パーセントには朝鮮人、日本人を含みます。(中略)小作料は建前としては5割ですが、実際には7割ぐらいになっていたのです。ですから、朝鮮の全耕地面積の半分から生産される穀物の5割ないし7割が、全農家の3.3パーセントにすぎない地主に集中するということなのです。なぜ小作料が七割ぐらいにまでなったかというと、労働市場においても、労働力を売る側に比べて買う側が少ない場合、売る側は安売りします。それと同じで、農村でも他に転業できるような近代産業が少ないため、土地にしがみつくしかない農家がたくさんいる。おのずから小作権をめぐって小作農民間の競争が起こり、常に地主が有利な立場に立つ。ですから地主の無理難題も通るわけです。
(中略)
農家全体の37.6%、戸数にして100万戸余りがまったく土地のない小作農です。100万戸となると、1家族を5人とみて500万人になります。当時、朝鮮の総人口は2000万人といわれていましたが、そのなかの500万人がまったく土地を持たず、地主の土地を借りて5割ないし7割の小作料を納めなくてはならなかったわけです。そのつぎは自作兼小作農です。つまり若干は自分の土地があるけれど、それでは足りないので、やはり地主の土地を借りなくてはならない。これが39.3パーセント戸数にして104万戸余りです。小作農と自作兼小作農を合わせると、全農家の77パーセントになります。

当時朝鮮にはまだ近代産業が発展していませんから、ほぼ8割ないし9割の人口が農村の土地にしがみついて生活していました。そしてそのなかの77パーセントが自分の土地を持たないか、もっていても少ないために地主の土地を耕しながら、収穫の半分ないし7割を収めていたのです。1920年の1戸あたりの平均耕地面積は1.61町歩(水田0.57町歩、畑1.04町歩)となっていますが、1町歩未満の農家が、実に全農家の66.97パーセント(うち0.5町歩未満が47.38パーセント)を占めています。つまり大多数の農家が零細農であるうえに小作農である、これでは人間が生きていること事態が奇蹟に近いのです。こういうところでは、地主はだいたい高利貸しを兼ねているわけです。ですから小作料プラス高利で二重に縛られた、そういう層が77パーセントいたというのが現実です。

結局77パーセントの小作農および自作兼小作農というのは過剰人口なのです。本当なら土地から離れて労働者になるべき人たちですが、朝鮮では農村の過剰人口を吸収するような近代産業の発展が遅かったから、いろいろな形でだぶついたのです。こういう過剰人口の存在は、まず第一に小作条件を非常に悪くします。小作農の立場は常に不利ですから、何とか土地を借りようと、地主のあらゆる要求をそのまま聞き入れなくてはならなかった。一つ例をあげましょう。日本の場合でも中国の場合でも、小作争議というのは、小作料があんまり高いから低くしろとか、借金を免除しろ、こういうのが普通です。ところが朝鮮の場合、小作争議の理由の部分は、これは想像もつかないことですが、地主による小作権移動に反対するということなのです。つまり、地主は小作農家が気にくわなければいつでも小作権を取り上げてほかにやってしまう。だから小作料が高いとか安いとかの問題以前に、小作権を確保するために血眼になったのです。土地にしがみつくしかほかに生活の方法がないものですから。これが朝鮮農民の小作争議の特徴です。

農業以外に産業がないと農民になるしかないため、人口増加によって小作人が増え小作人の割合が増加していく。また朝鮮人地主が日本人自作農に土地を売ったため、小作農が土地を追い出されてしまったという事もあったであろう。

「NOといえる教科書」 藤岡信勝・井沢元彦 平成10年 祥伝社
井沢
さてこの時代になると韓国の教科書の記述は一方的で、これはある意味で予想されたことですが、中でも見過ごせない点がいくつかありますから、見ていきましょう。まず「土地の侵奪」という項です。要するにここでは、日本はまず朝鮮人から土地を奪い取るために、非常に複雑な登録方法を待ち出して強制した。土地所有関係を近代的に整理するという理由をつけてのことだったけれども、しかしその登録方法がむずかしいのと、反日意識のため、登録しない農民が多かった。登録されない土地は持ち主がいないということになって、朝鮮総督府の所有になった。つまり、取り上げたということですね。そういうやり方で日本が土地を奪っていったと書いてあるわけです。

藤岡
それは歴史の歪曲です。どこが歪曲かといいますと、まず李朝においては、農民の土地所有などというのは、まったく保障されてないわけです。封建社会においてはヨーロッパでもそうでしたけれど、近代的な意味での土地所有権というのは、はっきりしていないんです。実は何重にも権利が重なっているということがあります。日本の地祖改正にしても、土地の私的所有を認めて、近代的な意味での土地所有権という慨念を確立したわけですが、日本が韓国でやろうとしたこともまさにこれです。つまり朝鮮総督府の最大の功績の一つは、土地の所有権を認めたということです。つまり農民に、耕作するそれぞれの土地の所有権を公権力が保障したということなんですよ。これは大きな功績です。そのことがまったく逆に語られているわけです。たしかにその過程でいろんな混乱はあったでしょうし、不平、不満も出たことでしょう。

井沢
たとえば権利が重層しているような場合ですね。両方が争って、どちらか一方に決まれば、もう一方の側としては、奪われたということになりますね。

藤岡
そういうことはあったとしても、全体として、この施策は明らかに朝鮮の近代化に役だったはずです。現実には隠田っていうのがたくさん見つかるわけですし、持ち主不明な土地はたしかに総督府のものになったということはありますが、その比率はごく微々たるものです。
山本有造氏の「日本植民地経済史研究」(名古屋大学出版会刊)によると、こうした理由で総督府に接収された上地は約12万町歩、また定められた期間に申告しなかったり、所有権を証明する書類がないために接収された土地は2万7000町歩で、合計14万7000町歩ということです。1922年(大正11年)の時点で朝鮮における全耕地面債は450万町歩ですから、土地調査により総督府が接収した土地は全耕地の3%ということになります。ちなみに同年の日本人農業者所有土地面積は17万5000町歩、東洋拓殖という国策会社の所有土地面債は8万町歩で、計25万5000町歩です。これも全耕地面積の5.7%にしかなりません。

井沢
それがこの教科書では、何かほとんどの土地を日本人が奪ったというように読めますね。韓国の教科書ばかりか、日本の教科書も同様です。ここで引いた教育出版のものでは「土地調査を行い、その中で、多くの朝鮮人から土地をうばった」、大阪書籍では「韓国併合後の朝鮮では、日本が土地調査を進めて農民たちから多くの耕地を取り上げ」と、韓国に追従した表現になっていて、明らかに事実と違います。

井沢
なぜそのような教科書が文部省の検定をパスしたんでしょうかね。そもそも近代的な土地所有権の確立されていない国は、近代化できないんです。これは鉄則です。ものを作るにしても何にしても、まず土地の所有が確定してないとどうしようもありません。総督府がこのことにまず最初に手をつけたというのは、当然のことです。中国などは、いまだに土地所有制がはっきりしていない。もっとも、朝鮮政府でも1895年に、量田事業という土地調査を試みたことはありましたが中断していました。このことは付け加えておいていいでしょう。


「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 1989年 原書房
ある国ある地域を植民地にした宗主国にとっては、土地に関する権利関係を整理することは最も重要な政策の一つである。というのは、前近代的な社会においては、土地所有権といった概念自体が確立しておらず、各種の伝統的利用権などが錯雑として存在しているからである。このような状態では、本国からの農民が土地を取得することは困難だ。農業移民に限らず、不動産が安全に取引されなければ、経済の発展は阻害されることになる。それに、これらの後進地域では、土地の面積も境界も定かでないことが多い。たとえば当時の朝鮮においては、田畑の面積は、『一斗落ち』(一斗の種籾を播くほどの広さ)とか、『一日耕』(農夫一人、牛一頭が一日間で耕すほどの広さ)といった単位ともいえないような単位を用いていた。これでは正確な課税もまた不可能となる。これらの問題を解決するためには土地台帳を整備することが必要であり、そのためにはまず土地調査事業を実施しなければならない。そこでいずれの宗主国も、その植民地に権力を確立すると、人口調査、度量衡の統一、貨幣の統一などとともに、最初の仕事として土地調査に着手するわけである。

(中略)
李朝末期には、土地の圧倒的部分は貴族によって所有され、彼らはソウルや地方都市に住み、完全に不在地主化していた。耕作農民と所有者の間には幾層にも中間的な管理人が介在し、小農は独立生産者というよりは農業労働者に近い状態で、彼らの下に隷属していたといわれる。そして耕す農民が土地を所有するという農民的土地所有権は確立しておらず、いつでも国家の収用により没収される不安な状態にあった。総督府の実施した土地調査事業は、少なくとも、農民の50%余りに土地所有権を確立したことも事実なのである。土地調査事業は、社会、経済の近代化のために絶対必要な施策であって、この事業自体を何か悪政のようにいうのは的を外れた批判といわねばならないだろう。

総督府は市街地、農地にひきつづき1918年、林野調査部を設け、林野の所有者の境界の調査も実施した。朝鮮の山林は、特別保護されている"封山・禁山"を除き、無主公山と称し自由伐採が許されていた。そのため山林は荒廃し、ことに、公私有の権利関係があいまいに混在しており、紛争や訴訟があとをたたなかったといわれる。村有地など公共の所有地は誰もが申告しない場合も多いから、そのような土地は無主地として国有財産に編入された。

日本においても明治維新後間もなく、同じ目的で土地調査事業が行なわれ、土地所有権を確定し、地券を交付した。その際、農民の伝統的耕作権が否定されたり、入会地など誰も申請しない土地が国有地に繰りこまれる事態が生じ、朝鮮の場合と同じような問題がおこった。日本全体の林野面積の70%近くが国有地となった一つの理由は、このような経緯から来ているのである。

日系第一の地主ともいうべき国策会社"東拓"(東洋拓殖株式会社)の所有耕地面積は、最大のときでも朝鮮の総耕地の4%にすぎなかった。(中略)東拓は朝鮮農民から土地を購入して、これを日本からの農業移民に分譲することをその主たる業務として発足したのであるが、日本移民の成績がかんばしくなかったこともあり、総督府は大正後半以降、同会社の土地買収を認めなくなった。(中略)また、農民に対し貸付を行ない、その元利の返済がないことを理由に担保の土地を奪ったとして非難される東拓の金利は、1933年には8%、1935年には6%と低下している。資本が不足している植民地では一般に金利が高いのが普通であって、インドでは月に20%といった金利さえ存在したことを考えると、東拓の金利は借り手にとって著しく有利なものといえよう




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▼ 飢餓輸出
〔植民統治政策の変化〕 日帝は食糧の不足を解決するため、韓国から米を略奪した。そのため、農民は多くの米を生産しながらも飢えるようになった。 (韓国の中学校用国定歴史教科書1997年版より)

朝鮮には李朝時代から「春窮麦嶺」という言葉があり、米と麦の収穫の端境期である春に、食糧確保に窮するのは慢性化していて、日本時代になって飢えるようになったのではない。
「朝鮮事情」 シャルル・ダレ 1874年 (金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫)
朝鮮では、飢饉が頻繁にみられる。最も貧しい階級の人びとにとって、それは年に2度、定期的に訪れる。まず、大麦の収穫を待つあいだの春窮期の6、7月、次いで粟類の取り入れ前の9、10月である。金銭は、法外な利子付きでしか借りられず、わずかばかりの貯えも使い果たした不幸な人びとは、米やその他の穀物を買うことすらできない。彼らに残された生きる糧といえば、ただ塩水で煮つめたわずかばかりの草木である

「宇垣一成日記 2」 みすず書房 (「関釜連絡船」1988年 金賛汀 朝日選書より)
(朝鮮総督の日記から)
咸鏡南北、江原道(朝鮮北部)以外にも飢餓に瀕する者少なからずして僅かに草根木皮によりて露命を繋ぎあるものを聞き、痛心に堪へずして当路者に糺せば、彼氏曰く、『朝鮮にては左様の事は珍しくもなく今頃になれば毎年各地に現はるる事象である。今ひと月もすれば木の葉も出て草も生ずるから夫れによりて収穫期まで何とかしていく』とて深く配慮するの様子もなかりし。(昭和7年3月31日付)

宇垣総督は慢性的に疲弊した農民の生活を安定させるため、総督府をあげて農村振興運動に取り組んだ。李朝時代には、このような国家指導者は存在しなかった。
Link 日韓関係の近現代史 / 韓国の戦後発展の理由

米は売ったのであり、略奪されたというのは言い掛かりだ。
「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 1989年 原書房
日本政府は日本内地の米不足を補うため朝鮮で米を増産させ、それを内地に移出した。そのため、朝鮮人は満州から輸入した粟を食べることを余儀なくされたと非難されている。
この主張には、朝鮮における米の増産以上に朝鮮から日本への米の移出量が増加し、また満州からの粟の輸入量が増大している統計が示されて、一見説得力があるかのごとく見える。『朝鮮の飢えによって、日本人の食料が充足された』のであって『産米増殖計画は、実は『米取り上げ政策』に他ならないというのである。しかしながらこの批判は、仮に当たっているとしても15%ぐらいしか正しいといえないであろう。というのは為政者として、農民の所得水準を上げようとするとき最大の悩みは、何を植えさせるべきかということである。そして、その際考慮すべきことは、農業生産的見地からその土地に何が適当かということと、その生産物に対して、市場が存在するのかという農産物流通上の問題である。米は朝鮮においては従来最も多く栽培されてきたものであって、自然条件がこれに適し、農民はその技術に最も習熟している、そして日本内地という市場はきわめて近い。米の増産で図ったのは、為政者として賢明というよりは当然の方針というべきである。

米を作って日本へ移出したことだけを責められるが、その見返りとして、朝鮮の農民が現金収入を得たことを無視してはならない。戦争中の食糧難の折り、内地におけると同様、強権をもって朝鮮の農民から米を供出させた事実はある。しかしこのことと、大正時代に始まった産米増産政策とは直接の関係はなく、別個の問題として取り上げるべきであろう。また朝鮮の農民は米を日本内地へ移出し、自らは粟を食べる結果になったということも、これ自体として非難に当たらない。市場性のある、すなわち価格の高いものを販売し、安いもので我慢するというのは、農民の、少なくとも貧農のごく普通のパターンである。米を作っていた日本の農民が、米はお祭りの時ぐらいしか食べず、麦や稗(ひえ)を食べていたことはよく知られている。『米を売り、粟を買って食料とした』という事実は、自ら収穫したものだけを食べる自給自足段階にあった朝鮮農民が、高いものを売り、安いものを買い、その差額で食料以外のものを購入して生活水準を上げるという市場生産に参加する農民に脱皮したことを意味するのである。

なお朝鮮農民が食料として『満州から粟を輸入した』というと、はなはだしく困窮化した状況を示すものとしてとられやすいが、北鮮ではもともと粟を食することが多く、米よりも雑穀の栽培面積のほうがずっと多かったのである。

もう一つ付け加えねばならぬことは、朝鮮米の輸入を、短期間の一時期を除き日本政府は望んでいなかったという事実である。1918年の米騷動を契期に日本内地において米の不足が痛感され、総督府は1920年から15年間に135万トンの増産計画にとりかかったのだが、世界大戦後の不景気により、米価は下落の一途をたどった。日本政府は米穀法を制定して価格維持に努力したのだが、その効果は空しかった。このような状況にもかかわらず、朝鮮で増産された米は日本内地に流入し、ことに1927年の内地朝鮮を通ずる大豊作は米価をさらに下落させ、内地の農民の窮迫化を招き、一大政治間題にまで発展した。1931年には、米の価格は1919年の実に40%に崩落した。このため昭和初年、朝鮮米の内地移入を制限しようとする農林省と、これに猛反対する朝鮮総督府との間に激烈な論争がくり返されることになる。このことは昭和農政史における著名な事件なのである。米の増産を奨励したのは日本政府なのであるから、その意味では自業自得であろうが、当時、日本政府が朝鮮米の移入を奨励したり強制したりした事実はまったくないのであって、事実はその逆なのである。「朝鮮米の移入は、日本農民の犠牲によって行なわれた」といっても過言ではない

私は朝鮮農民の窮乏化を肯定しているのでもなければ、当時の日本政府を弁護しようと意図しているのでもない。ただ解放直後の感情的な反日非難の時期ならいざ知らず、40年たった後にも、事実に反する批判を平然とくり返すものも、それを黙って聞いているものも、将来の歴史家の軽蔑をかうであろうし、また決して日韓(朝)両国民のためにならないと思われるのである。

「歴史を偽造する韓国」 中川八洋 2002年 徳間書店
米を日本に移出したいと強引に総督府に"強要"したのは朝鮮人農家である。日本は1912年の米騒動になったあの米不足の時を唯一の例外として、日本国内の農家の保護のために朝鮮米の移入を制限することを試みていた。このように、朝鮮米の移入をできるだけさせないとする日本政府と、もっと移入しろと日本政府に迫る朝鮮総督府とが凄まじい争いをしたのである。それは、朝鮮人農家が、朝鮮の物価水準からして破格の米代金を日本から手に入れるべく、自らは粟や雑穀を食べて米を移出しようとしたのを総督府が全面支援したためであった。

この朝鮮人の「米移出フィーバー」が朝鮮人全体の健康を害すると考え、ある年には、総督府が、それにストップをかけ、急いで満州その他から雑穀の大量輪入をした。現に、日本統治下では米移出によって飢餓が生じたことは一度もない。それを「飢餓輸出」とは、何という史実の歪曲であろうか。朝鮮人の「過剰金欲主義による米移出フィーバー」というべきが、唯一に正しい歴史である。現に、この1920年代後半から朝鮮の人口は増えつづけ、一人当りの国民所得も大幅に向上した。より豊かになった。

自給自足型であった朝鮮農民は、米を売ることでしか現金を手にする方法を知らなかった。


貧しかった李朝時代の朝鮮人。日本統治時代になると、農民は生産した米を高く売り、安い穀物を買って日々の食料とした。食事の質を落として金を貯め、それで家財道具を買い揃えて生活水準を上げていったのだ。
「朝鮮事情」 シャルル・ダレ 1874年 (金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫)
あなたは、みすぼらしい茅屋というものを見たことがあるでしょう。では、あなたの知っている最も貧しい茅屋を、その美しさと強固さの程度をさらに落として想像してみて下さい。するとそれが、みすぼらしい朝鮮の住まいについての、ほとんど正確な姿となるでしょう。一般的にいって、朝鮮人は藁ぶきの家に住んでいます。 …二階建ての家は、探してもむだです。そのようなものを朝鮮人は知らないのです。
(中略)
次に家具について、簡単に一瞥しましょう。まず寝台ですが… 朝鮮人はほとんど、茣蓙(ござ)の上で寝ます。貧しい人々、換言すれば大多数の者は、昼も夜も着ている同じ服のほかには掛けるものとてなく、茣蓙の上で横になります。少しでも金のある者は、蒲団(ふとん)というぜいたく品を持っています。その他の家具ですが、貧しい人々は、もうその他に何も持っていません。常民たちは、横にかかった棒を用意し、それに着換えを掛けておきます。裕福な人たちは、いくつかの籠を木の棒に掛けたり屋根につるしたりします。裕福な家には、かなり野暮ったい行李(こうり=竹や柳で編んだ箱)があります。学者や商人たちは、筆と墨、それに巻紙が置いてある小さな書見台を傍らに置いて座っています。若い婦人は、チマ(民族衣装)をいれておく小さな黒いタンスを持っています。

「韓山紀行」 山路愛山 1904年 (「現代日本思想大系4ナショナリズム」1964年 筑摩書房より)
(灰色文字は管理人注)
(明治時代の史論家山路愛山の韓国紀行から)
水原を韓人は称して韓南第一の都会というそうなれども日本の穢多村(原文のママ)同然の体(てい)たらくなり。さりながら城門は立派なるものなり(水原城はユネスコ世界遺産)。韓国の都会は大陸流にして廻らすに城壁をもってし四門を開き望楼を設く。遠望すれば写真で見たる万里の長城なり…  それはともあれ僕は城壁の大なると楼門の魏々たるとを見、城の内外にある民家の豚小屋同然たるに対比し、韓国には役人の建築ありて、人民の建築なきを感ぜざることを得ず。


朝鮮の食糧不足は急激な人口増加に食糧増産が追いつけないから起こったのである。 (植民地36年で倍増)
「朝鮮総督府統計年報」  朝鮮総督府編 
年次 年末常住人口・(注)1944年は5月
1910(日韓併合年) 1312万8780人  (注)初期の調査は精度が低いとされている
1915 1595万7630人
1920 1691万6078人
1925 1854万3326人
1930 1968万5587人
1935 2124万8864人
1940 2295万4563人
1944 2512万0174人 (この他に日本内地や満州に数多くの朝鮮人がいた)
一人当りの米消費量が年ごとに減少している統計資料を持ち出して、朝鮮から米を略奪した結果だという主張もあるが、人口増で少食の幼年人口の割合が大幅に増加していくのだから、朝鮮人一人当りの米消費量が減少するのは当然である。また、大旱魃で米収穫量が激減した年もあった。


李氏朝鮮時代の農民たちの惨状
「朝鮮」 金達寿 1958年 岩波新書
農村の荒廃はひどく、農民は流民となってさまよい、そのうえ旱害・水害・悪疫等々もまた相次いでこの国を襲った。顕宗の時の大飢饉(1671)は飢えと疫病とによって死んだものは、前二者(秀吉軍・満州軍)との戦争による死亡者よりも多く、飢民は墓を暴いて死体の衣をはぎとり、親は子を捨てて道端に行き倒れた。また、この飢民は変じて火賊といわれる群盗となるものもあるという状態であった。
こういう災害は李朝の復興期であった英祖の時代にもおこり、その25年間に疫病による死者5〜60万を数えたといわれ、1812年には飢民の数は平安道90万、黄海道52万、江原道12万、慶尚道92万、忠清道18万、全羅道69万にのぼった。


「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
"生き地獄"を生きた李朝朝鮮の農民たち
フランス人宣教師のシャルル・ダレは、当時の朝鮮王国のがんこな鎖国政策について、こう書いている。
「1871年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が朝鮮半島を襲 い、国土は荒廃した。あまりの酷さに、西海岸の人々のなかに は、娘を中国人の密航業者に1人当たり米1升で売るものもい た。北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人か の朝鮮人は、惨たらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し、 「どこの道にも死体が転がっている」と訴えた。  しかし、そんなときでさえ、朝鮮国王は、中国や日本からの 食料買入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを 放置しておく道を選んだ」(朝鮮事情・平凡社東洋文庫) 丁若[+]著の『牧民心書』でも、李朝社会の貪官汚吏の下であえぐ悲惨な朝鮮農民生活が書かれている。
(中略)
朝鮮農民の間には、古来から「春窮、麦嶺越え難し」という古諺があるほどだが、農民は収穫の5割以上が年貢として取り立てられてしまうし、収穫した米も翌年3月の初めごろには全部、食いつくしてしまう。そこで、じやがいもや麦のできる6月までの3ヵ月は、春窮期といわれるのだ。李朝以来、数百年にわたって朝鮮農民の背負う歴史的な宿痾(長い間治らない病気)と言える。それは人ロの9割を占める農民のうちの8割の小作人が、保存食糧を冬季に食いつくし、麦の収穫期までの間、草の根、干し草、どん栗、とちの実などで食いつないでいくことである。極端な場合には、松の木の表皮と木質との間にある柔らかい白い部分をはぎとって食用にする。あるいは五月になると麦の成熟するのを待ちきれず、穂がまだ青く乳状であるものを、穂先だけ摘み取って粥にして食べたり、せっぱつまれば種子籾まで食べつくしてしまう場合もある。

朝鮮の農書、農史を読むと中国の農民と酷似している。旱害、水害、風害、ひょう害、霜害、病虫害が、間断なく年中行事のように各地方を襲い、農は乞食、農奴同然である。そのうえに、両班と悪吏に食い物にされ、小作農ほ、大なり小なり、慢性的な食糧難と借金苦にあえいでいる。だから「小作人は、地主のところで出来高の勘定をすまして帰るときには、箒と箕(穀物をふるって、ちりやからをふりわける道具)を持って家に帰るだけである」という惨めな諺があるぐらいだ。もちろん、それは大多数の農民に限らず、朝鮮の鉱山労働者も同じである。『朝鮮旅行記』によれぱ、「労働者の受け取る賃金はごくわずかで、元山(ウオンサン)にて日本人へ金を売りさばく役人たちの懐に全てが入ってしまう」「勤労の民は非常に貧しくて、飢えている」「鉱山の近くに村があって、労働者らはそこで食事し、酒を買い、給料には手を付けないで、ほとんど裸同然でうろついている」

そもそも朝鮮半島は三南(忠清、慶尚、全羅)地方以外、飢饉の多いところで、最近の北朝鮮のような食糧危機は、決して特異な現象ではない。たとえば、丙子胡乱後、毎年各地が旱魃で飢饉が続き、崇徳3年、咸鏡道が飢饉で疫病、死者3300余、黄海道に蝗害、三南地方まで凶作。以来、3年間連続で飢饉が続いた。朝鮮『仁祖実録』によれば、「6年5月、3年凶作の後、八路が大旱、両季の麦が枯れ、四野が全て赤地、これは誠に千古未曾有の大異変なり」、8年3月にまた「飢饉に疫病、人民はほとんど死に絶えた」とまで述べている。1671年の大飢饉では、墓を暴いて屍体の衣を剥ぎ取り、親は子を道端に捨てたほどであった。

朝鮮総督府は、李朝社会の惨状――乞食同然の農民と道端に行き倒れの無宿者の多さに驚き、自作農の創出、小作制度の改善を重視している。朝鮮半島の開発、社会改革に献身した日本人が少なくなかったことは、韓国人、朝鮮人も知っておくべきではないだろうか


李氏朝鮮は現在の北朝鮮のように大量の餓死者がでる国だったのだ。朝鮮半島の歴史で飢饉による餓死者が出なかったのは、今に至るまで日本統治時代だけである。

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▼ 農民層の没落
1920年から始まった「産米増殖計画」米の単作増産のための水利施設、開墾、干拓などは農民に租税、水税、小作料の増加をもたらし、農民の破綻没落をもたらした。

「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
朝鮮産米の生産性は、どれだけ向上したか
日本の農務省による『韓国土地農産調査報告』によれぱ、1905年、農業生産力の高い朝鮮半島南部でさえ、反当たりの平均収穫量は、9斗のみで、当時の日本の平均反当たり平均収穫量、1石6斗の半分強であった。だが、朝鮮総督府スタート当時、産米高が約1000万石前後であったのに対し、その後年々産米高が増加し、18年後の昭和3年には1700万石を生産した。「日帝36年」の朝鮮統治で、米穀生産政策はもっとも朝鮮人に恩恵を施したものの一つであった。有史以来、年産1000万石以上を一度も超えたことのなかった朝鮮産米生産量は、昭和時代に入るとつねに2000万石を突披したのだ。それは歴代総督が、食糧生産の充実と米穀生産性の向上に並々ならぬ努力を重ね、土地改良、品種改良、耕法の改善、小作法の制定、低利融資、米穀生産奨励などを行なって増産を重ね、日本国内産米との競争によって品質向上に努めてきたからであろう。朝鮮産米の対日輸出は、日本内地の食糧不足の救援に大きな役割を果たしたことは事実であったが、もう一方では日本農民の競争者となり、国内の米価低落に拍車をかけ、内地の農家に脅成と圧迫を与えた。とくに昭和5、6年の恐慌以後、いわゆる外地米統制問題として浮上し、朝鮮総督府と日本政府との間の対立をもたらしたほど発展していた。しかしながら、朝鮮近代史では、対日輸出による米価の高騰、日本商人による流通の支配、朝鮮商人の従属化、買弁化を強要されたとか、農民は正確な米穀の相場を知らないまま米穀商人の言い値で売り渡すことを余儀なくされたので、詐欺同然であるとか、さらに日本商人の高利貸的取奪が強められた……という記述も多い。いかなる時代でも米穀商人の「収奪」は存在するかもしれないが、朝鮮総督府の米穀保護政策は、決して現在の日本農水省の米穀保護政策に劣ることはない。たとえぱ、米価の決定と米作農に対する生産奨励補助金の交付などは、どう考えるべきだろうか。1941年の米価設定では、生産者の手取り価格は、1石で50円となるのに対し、消費者価格は43円に据え置きである。この差額は政府負担となった。43年には政府の標準買入れ価格は44円、奨励金などを算入して1石当たり62円50銭にまで引き上げられた。だが、標準売渡し価格は、43円であった。


日本によるわずか36年の植民地統治で米の生産量が倍増した。彼らの誇る朝鮮半万年の歴史とは何だったのだろうか。


搾取される上勤勉とは程遠い李朝時代の農民たち
「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社
地方を治める官吏は、みな中央で任命されたうえで派遣された。中央からやってきた役人たちは、地元に対して同情心を持っていなかった。着任すると、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)の政治を行こない、自分の任期中に、できるかぎり税を取り立てるかたわら、自分の懐を肥やそうとした。平均的な任期が短いものだったので、苛政(暴政)にいっそう拍車がかけられた。そこで、日本のように地方ごとに産業が創出されて、発展することがなかった。韓国の農民たちは働く意欲を失った。

李朝末期の韓国を訪れたカナダ人ジャーナリストのマッケンジーは、「私は、十分に耕せそうな土地をほったらかしにしていながらも、飢えに苦しむ農民のさまが理解できなかった。「どうしてそれらの土地を耕さないのか」ときいたところ、「耕せば耕すほど、税を取られるだけのことだ」という返事があった」(「朝鮮の悲劇」 F.A .マッケンジー)と書いている。

「韓山紀行」 山路愛山 (「近現代史のなかの日本と朝鮮」 山田昭次、高崎宗司 1991年 東京書籍より)
(釜山にて)僕の目に映じたる韓人の労働者はすこぶるノン気至極なるものにして餒ゆれば(うゆれば=食糧がなくなって腹がへる)すなわち起って労働に従事し、わずか一日の口腹を肥やせばすなわち家に帰って眠らんことを思う。物を蓄うるの念もなく、自己の情欲を改良するの希望もなく、ほとんど豚小屋にひとしき汚穢(おわい)なる家に蟄居し、その固陋(ころう)の風習を守りて少しも改むることを知らずという。僕ひとたび釜山の地を踏んで実にただちに韓国経営の容易の業にあらざるを知るなり。(明治37(1904)年5月5日)

朝鮮の発展はインフラの整備だけで成し遂げれるものではなかった。怠惰な民族性を改め勤勉な労働精神を涵養しなければ朝鮮の発展はなかった。


朝鮮農民の手本となった日本農業移民
「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
日本人の朝鮮半島に対する「土地強奪」間題としてよく批判されているのは、日本人が小高い丘に登って見渡し、土地を指さして、手当たりしだいに良田を奪っていったというものだ。日本人は両班(ヤンバン)ではあるまいし、法治国家の国民である。これほどの歴史歪曲があろうか。朝鮮半島では、東拓をはじめその他の日本人地主は、せいぜい一割にすぎなかった仮に「二束三文」で朝鮮半島の土地を手に入れた者がいたとしてもである。
(中略)
移住農民は、やがて米価の高騰により、生活状態が好転し、養豚、養鶏、養蚕、果樹園の経営その他の多角経営で、地方に貢献していった。そもそも日本農民は、朝鮮農民の粗放農業とは違い、集約農業に慣れていたので、集約的、多角的経営によって定着し、農民は生活が向上している。

日本農民が開拓した農地は、決して言われているほどの良田ばかりではなかった。開墾地は元は大河の遊水地、交通不便にして少々塩害がある干拓地であったものが少なくなかった。たとえば、江西干拓事業は3500町歩の干潟地、海岸草生地であった。李完用の養孫から買った土地は、黄海道東部の山間にある高原地帯であった。地味不良で有機物に乏しく、灌漑用水も上がらない、水田にもならない不毛の地であった。当時の東拓農業移民を含めて、日本の農業移民は、朝鮮半島農民の美田、良田を強奪するよりも、朝鮮半島の農民が一顧だにしなかった不毛の地の開墾や僻地の干拓を行なう者が多かった。

日本農民の朝鮮半島開拓は、数千年来の農耕国家には、まったく考えられないほどの農業革命をまき起こしている。農業移民の改良農法は、成績が上がれば朝鮮小作人のモデルとなり、改良品種の試作によって、新品種、新農法が次から次へと普及していった。さらに移住農民の養豚、養鶏、養蚕などの多角的経営、農事施設、農業指導、勧業奨励などは、かつて小作人からの収奪しか知らない李朝時代には、見られない光景であった。当時の朝鮮人の気風としては、午前中に働いて、午後は寝て暮らす、明日は明日の風が吹くというのが一般的であったからだ。雨や雪の日の労働を忌み嫌い、冬季になると室内に蟄居(家のなかに閉じこもり)して、無為徒食する朝鮮農民にとって、日本農民が老若男女の差なく、家族ぐるみの農事に従事し、厳冬にも室内作業その他の副業に励むことは驚異であった。そして日本農民の自カ更生に燃える生活意識と勤勉な農民気風が、新風として朝鮮の農村に吹き渡った。そもそも朝鮮人女性は屋外で労働する習慣がなく、屋内に隠れていて、他人に顔を見せることを恥としていたが、婦人の屋外勤労奨励により、少しずつ畑などで働くようになった。

日本農民の集約的農法は、労働力を結集して、換金作物から副業にまで及び、自ら資産を増していくとともに地方をも潤していった。日常必需品の急増によって地方経済をいっそう刺激し、市場経済が賑わっていく。しかも、僻地にまで組合や学校がつくられ、医療施設も普及し、道踏、橋梁がつくられ、流通、運搬も盛んになった。「土地の収奪・搾取」などと机上で論じている戦後の論埋とは違い、日本の農民が朝鮮半島の農業近代化だけでなく、朝鮮半島の近代市民社会の成熟に多大な貢献を果たしてきた。その歴史的事実について、終戦後の学者たちは、なぜ本格的な研究をしないのだろうか。まことに遣憾である。

「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社
日本人は、農村振興運動を進めた。日本統治時代以前の韓国の農村には、河川に堤防もなかったし、水利組合も存在しなかったが、水利組合が結成されたために、河川地域が整備されて堤防が建設され、それまで恒常的だった水害から、農地や農作可能な土地を守ることができるようになって、新しい農地がつくられ、多くのところで稲作が可能になった。この結果、日本人地主も増えた。また畜産が奨励され、日本人がつくった金融組合が、希望する農家ごとに子牛一頭を無料で与えてくれた。与えたというよりは、貸したものだった。牛が成長して子牛が生まれたら、一頭を組合に返すと、成長した親牛は、無償で農民のものとなるという制度だった。

日本人は植林と治水に力を注いだ。山を管理し、植林を進めるために、総督府は山監(サンカン)という監督官を村に置いた。また村人が、植林した山に入ることを禁じた。

私の小学校の日本人教師や山林局に所属していた山監や若い農村教導師は、緑化について情熱にあふれていた。真面目で、献身的な青年が多かった。日本統治時代には、そのせいではげ山だった山々が緑に覆われるようになった。農村教導師は、農村振興運動の一環として農村の改革と生活改善のために、村から村へと巡回していた。

私が小学校に入学する前に、満州事変が起こり、やがて支那事変(日中戦争)に移っていったので、村でも戦時色がしだいに感じられるようになっていった。私は、父親に違れられて公会堂で農村教導師が講演をするのをたぴたび聴いた。名調子の演説が多かった。

(中略)
あるいは金融組合による子牛を貸し出す制度についての講演会で、別の農村教導師が「夕焼けほのぼのと燃えあがる空を背にして、牛を連れて家に帰る美しい姿を目にしたときには、感激の熱い涙が、ポタリポタリと落ちるのであります」と熱弁を振るった。

私の小学校時代には、日本統治がもう二十五年以上になっていたので、村の人々の大半が日本語を聞いて理解することができた。そこで講話は、通訳なしに日本語で行なわれた。人々は話に耳を傾けながら、しばしば韓国語で「ケンジャンハンラサム」(立派な人だな)とつぶやいたり、「ヨクシ、ヨクシ」(なるほど、なるほど)と相槌を打った。

また「カを合わせて朝鮮を蘇生させましょう!今日の朝鮮では、山川草木が空からくれた天の恵みである雨水を貯え切れず、海に流してしまっています。ああ、もったいない、もったいない。そこで陸は、いつも旱魃に悩まされています。木がもっと山に生い繁れば、天の息みの雨の40パーセントを、飲み水や、水田の水として、または地下水として貯えることができます。徹底的に山に木を蓄えようではありませんか。水は生命の源であり、農耕の源なのです」といった話もあった。

日韓併合以前の韓国の山々といえぱ、乱伐したり、燃料にしたりしたために、ほとんどがはげ山だった。日本統治時代には植林が進んだので、多くの山々が緑に覆われるようになっていた。私の村の山にも草木が繁り、兎を追うことができた。しかし、独立後にまたかって気ままに木を切るようになったので、はげ山に戻ってしまった。

日本人地主は、韓国人の小作人の間で、きわめて評判が良かった。日本人がやってきてから、改良された堆肥を奨励したし、化学肥料が配給されるかたわら、改良品種や、進んだ農業技術を導入したので、収穫が増えたし、農地開拓と河川整備を進めたので、村人の生活水準が大きく向上したからだ。

それに日本人地主は、昔の両班たちよりもはるかに寛容だった。両班のように小作人(ソチクイン)である常人を理不尽に苛めるようなことがなかったし、不作のときには、小作料を安くしてくれた。日本人地主のほうが、物わかりがよかった。だから、日本人の地主は人気があった。みんなは、韓国人の地主の小作人となるよりは、日本人地主の小作人になりたがったのは、当然のことだった。日本人のもとで働いていた常人たちは、羨望の自で見られていた。

日本人が所有していた農地は、独立後に、「敵産」(チョクサン)としてすべて没収された。しかし、日本人が今日の韓国農業の発展の基礎をつくったことは、否定できない。

私たちの村は、李朝時代にはいつも水害で悩まされていた。そこで農作が思うようにできなかった水田地域を、「べべーミ」(船が浮かぶような水田)と呼んでいた。しかし、1911年(明治四十四年)、川に堤防が築かれたために、水害から逃れることができた。それからは「ベベーミ」という悪名のあった水田が一等級の水田に変わって、多収穫地として生まれ変わった。この話は、私の父親がしてくれた話である。

母はいつも韓服を着ていた。しばしば李朝時代のころの生活がいかに苦しいものだったのかを、話してくれた。村には五つの農業用水池があった。日本人が京釜線を敷くのにあたって、池を掘って線路の盛り土をしたということを教えてくれたのも、母だった。

日本統治時代になってから、村の人々はまともな生活を営むことがでぎるようになったのだった。私の村では、独立運動系の人々を除けぱ、ほとんどの村民が日本人を尊敬していたし、敬愛していたといってよかった。村の人々のあいだで「イルボンサラムン・キョンウカタルダ」(日本人は、事理に明るい〈すべて正しい〉)という言葉がよく交わされた。

それでも村の人々が、外国人である日本人に対して屈折した感情をいだいていたことも事実だった。何といっても、韓国は外国の支配下にあったのだ。日本人のもとで働いたり、日本人と結ぶことによって成功している者は、陰で「アブチェビ」(ゴマスリ)と呼ばれた。これにはたぶんに嫉妬心理も手伝っていただろう。


「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
李朝時代の朝鮮農民は、あたかも「自然法則」に弄ばれるように、4、5年に1回、巨大な旱魃、あるいは水害に襲われるので、農業はきわめて不安定であり、農民は自然災害に対しても無抵抗であった。政治に対してもそうであった。すべての民衆はこの人力をはるかに超える恒常的自然災害に対しては、いかんともしがたい天命として甘受しつづけてきた。そこから生まれたのが民族全体の諦観(あきらめ)であろう。農業というのは、自然の恩恵によって成り立っているもので、ある程度、自然に左右されやすい。しかし人力によって、その自然の猛威を克服しないかぎり、農業は成り立たないし、進歩発展も不可能である。農業がきわめて不安定、不確実であることを歴史的事実として体得した農民は、資本の再投下にほとんど関心がなく、先祖代々からもっぱら安易な略奪農法に明け暮れていた。それが李朝時代の社会経済発展の停滞を招き、自主独立の精神を喪失させるに至った歴史社会的背景であったともいわれる。朝鮮の歴史も、そのような農業基盤のうえに成り立っていた。

新渡戸稲造(1862〜1933、農政学者、教育者)が見た「枯死国朝鮮」とは、自然の枯死だけでなく、民族まで枯死に瀕していることを語っていたのであろうか。李朝時代は旱魃、水害が繰り返し発生し、飢饉が日常化していた。統監府以前の朝鮮社会は、司法行政の綱紀が乱れ、教育、衛生はほとんど顧みられず、河川、林野が荒廃し、道路、橋梁もなく、港湾も船も車もほとんどなかった時代であった。それから20年後の昭和初期に朝鮮を訪れたアメリカの碩学(せきがく)ブルンナー博士は、朝鮮農村の実状を視察して、地方の古老にも接して今昔を比較し、天と地ほどの差が見られることに驚嘆した。朝鮮総督府は人さらい、草賊(盗賊)暗躍、飢民あふれる李朝末期の社会に、産業をおこし、治安を回復し、近代社会をつくったのであった

1930年からの3年間、中国西北部の大飢饉では、餓死者1000万人、1942年にはベンガルの飢饉で餓死者150万人が出た。20世紀前半になっても、アジア大陸各地を相変わらず飢饉が襲い続けた。しかし、朝鮮半島は、大旱魃に襲われたことがあったものの、飢饉はもはや過去のものとなったのである。


李朝時代の脆弱な農業基盤
「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
朝鮮半島は、地形的には脊梁山脈が縦走しているので、日本海側は、豆満江以外は、河川の流路が短く、朝鮮海峡側に注ぐ河川には大河が多い。また、有史以来、大規模な治山、治水は、ほとんど行なわれておらず、自然のままで放置されていた。雨季はだいたい7、8月ごろで、台風の来襲も同時期に集中しているので、洪水と旱魃は、交互に朝鮮半島を襲い、その自然生態史をつくってきた。

わずか都邑付近には、石堤や土堤があるものの、豪雨になると洪水が平原に氾濫し、広漠たる平野が一夜にして湖沼と化してしまうこともたびたびあった。日本の河川に比べて、流水量は二倍もあるのに対して、渇水期の流水量は、日本の河用の十分の一から二十分の一にすぎない。

朝鮮半島は、統監・総督府時代以前は、ソウルなどの一部の都市を除いて、ほとんど自然のままの状態で荒廃していた。李朝時代には慣行にしたがって、賦役を課し、わずかに都邑のみにおいて、堤防護岸などの工事が行なわれていただけだった。

朝鮮半島には、灌漑を目的とする堰堤、あるいは河水を堰き止める石木や土でつくられた「ボク(上流に堰堤を築いて川の水を堰き止め、これを水路によって下流地方の平野に導水する)というものは、決して絶無ではなかった。はるか1500年前の新羅時代に有名なペタコル池(堤)という一大堰堤(岸長1800歩)があり、歴代王朝に堰堤の修築もないわけではなかったが、李朝未期になると、山河がしだいに荒廃し、堰堤らしいものは、廃堤の遺跡しか残っていない。灌漑用水をめぐる紛争は古来絶えることがなかった。

李朝の歴史記録によれば、堰提、ボクの施設数は朝鮮半島で2万4000を数えたといわれる。しかし水利関係者が、「万石堤」と称する貯水池以外は、ほとんどどこかに消え、荒れ果てている。農事潅漑はたいてい腕力による。流水の汲み上げに限る足踏み水車も、まれにしか見られなかった。天水に頼り、農業はきわめて原始的である。


稲作を基本とする国では治水こそが繁栄の礎であるはずなのだが・・・・・

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▼ 森林の伐採
日本人が朝鮮の森林を伐採してはげ山にした

朝鮮半島の山々を甦らせた山林緑化事業
「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
1885年12月6日から86年2月29日にかけて、ソウルから北部朝鮮をへてポシェートに至るまで徒歩で踏破したペ・エム・ジェロトケヴィイチは、朝鮮について(李朝時代)
「どこまでいっても禿山と赤土ばかりで、草も全て撚料のために刈り取られている」、
「山地が痩せていて、昨年も沢山の餓死者が出た」、
「ここは退屈極まりない土地で、山は禿山、植生は殆ど見られない」、
「朝鮮人たちは土地が痩せていると不満を訴えている。樹木は殆ど皆無で、燃料には藁と草が使われる」、(「朝鮮旅行記」)などと記述している。

朝鮮半島の林野状況については、統監府設置当時では、鴨緑江と豆満江流域などで原生林が見られる以外は、はげ山が多く荒涼とした景観となっていた。だから、はげ山といえぱ西にスペイン、東に朝鮮といわれたほどであった。ではなぜ朝鮮半島が、あれほどの山野荒廃、基岩露出、土砂流出という山河崩壊の惨状になったかについては、気侯や地質上の自然原因と人為的原因があったと考えられている。人為的原因については、乱伐といわれるものが原因で、冬季の薪材の需要と林政の不備、戦争災害もその原因の一つである。数百年来にわたる旱魃と洪水による悪循環によって、いっそう山河と大地は荒廃していった。朝鮮では古来、山林は個人所有を認めていなかったので「無主公山」といわれ、民衆は木を伐り、根まで掘っていくので荒廃していった。

朝鮮半島の荒廃した山野の復旧造林は、明治40年代から営林署の設立によって行なわれた。森林保護令、幼齢林の育成、民有林に対する造林補助、病虫害駆除、森林組合補助、林業試験場の整備、地方庁職員の増員を行なった。さらに愛林思想を育成するために、農林当局は1911年から毎年4月3日に記念植樹を行ない、それからの30年間で5億9000万本の植林を達成した。朝鮮半島の山河崩壊を緩和、阻止するために、禿山への植林と砂防工事が全国的に実施された。

『朝鮮半島の山林』(土井林学振興会出版)によれぱ、大正7年(1918年)以降から昭和17年までの施工面積は約17万7300ヘクタール、造林本数は6億622万4000本であった。



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▼ 経済活動の抑圧
〔産業の侵奪〕 日帝は、韓国の土地を略奪すると同持に韓民族の産業活動を制約し、さまざまな手段で資源を略奪した。これは韓国を、日本の経済発展に必要な商品市場と原料供給地にして、彼らの国家利益を増やすためだった。日帝の産業侵奪政策に韓民族の経済活動は制限され、民族産業もその発展が抑圧され、沈滞するしかなかった。とくに、電気と鉄道などの事業は、朝鮮総督府と日本の大企業が握り、彼らの利益を増やすのに利用された。 (韓国の中学校用国定歴史教科書1997年版より)

植民地に本格的な工業を興したのは日本だけである。
「韓国人の歴史観」 黒田勝弘 平成11年 文春新書
韓国で「植民地近代化論」あるいは「侵略と開発」論を主導してきた学者に、安秉直・ソウル大経済学部教授がいる。安教授は研究者として、日本支配時代の功罪は実証的研究によって冷静に認識されるべきだとの立場から、「これまで韓国内で常識とされてきた歴史観の見直しが必要である」と述べている(『SAPIO』1995年12月20日号)。安教授によると「植民地時代の朝鮮では農業経済が安定し工業生産力が拡充するなど、多くの発展があった。それは自生的なものでなく日本の植民地開発による部分が大きい。たとえばGDP(国内総生産)は1912年から37年までの平均で4.15%の成長だった。これは当時の先進国の成長率を上回っていた。それは植民地化の過程で日本が持ち込んだ貨幣制度、土地調査などの近代的な諸制度、そして港湾、鉄道、道路、電信、銀行などのインフラストラクチャーの拡大によるものだった」という。そして日本の植民地支配の開発的側面を過小評価してはならないといい、「従来のような独立連動勢力を特権化する歴史観は、反日感情への過大な配慮のため常にそういう傾向があった。その弊害として韓国の世論が歴史の事実から目をそらすことになり、植民地支配下において韓国人自身がどれほどの発展潜在力をもっていたのかとか、現代史における韓国経済の発展が近代史とどれほどの関連性を持っていたのかなど、客観的な研究と判断の余地をなくしてしまった」と批判している。

植民地時代までさかのぼらなくても、戦後から今日に至るまで、韓国はずっと海外からの巨額な投資や融資に頼ってきた。植民地朝鮮に投下した国土改造・殖産興業の巨額投資は、朝鮮・韓民族の自力更生の力をはるかに超えたものであることを知るべきである。

元々李朝時代から商業・工業とも振るわなかった。急に近代化できるわけがない。日本の江戸時代のような繁栄を想像していたとすると大間違い。
「こんな「歴史」に誰がした」渡部昇一・谷沢永一 平成9年 クレスト社
渡部
日清・日露戦争当時の朝鮮というのは、底知れぬ貧乏国でした。単に近代産業がないというレベルではありません。農業生産にしても、とうてい日本とは比べ物にならないものだった。「春窮(しゅんきゅう)」という言葉があるくらいで、秋に収穫した米も春を迎えるころになると尽きてしまうというのが珍しくなかった。収奪なんてできるわけがない。
また当然、商業なども発達していませんでした。日清戦争の後に、陸軍軍人であった柴五郎が朝鮮を旅行したときに驚いたのは、朝鮮には銀貨も紙幣もなくて、銅銭だけがあったということでした。つまり、当時の朝鮮には高額の貨幣が必要なかったのです。そして、その銅銭もシナから輪入した銭だった。

谷沢
日本で言うと、平安時代末期から鎌倉時代の状況です。つまり、コリアの経済は日本よりも800年遅れているわけです。(中略)李氏朝鮮においては商業は卑しいものだと思われていた。


「朝鮮事情」 シャルル・ダレ 1874年 (金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫)
朝鮮人は、科学技術の分野においてほとんど進歩のあとを見せていないが、産業の知識においては、なおさら遅れている。この国では、数世紀もの間、有用な技術は全く進歩していない。この立ち遅れの主な原因の一つに、人々が全ての手工業を各自の家でまかわなければならず、必需品を自分の手で作らなければならないという現実がある。農民たちは、自分の手で衣服・わらぐつ・籠・ざる・箒・綱・紐・ござ・それに必要な農具を作る。一言にして言えば、自給自足しているのである。彼らはもっとも単純で原始的な方法に満足しているので、決してめざましい熟練にまで達することはない。

特殊な道具を必要とし、その道具を使用するのに、徒弟期間の置かれた職業にのみ特別な職人がいる。しかしこの場合でも、一つの定まった仕事場だけで働く職人は稀である。普通彼らは雇い主の所まで道具を担いでいき、そこでの仕事が終わればまた別の仕事を捜す。設備が必要なはずの者でさえ、一定の場所に留まることがない。たとえば陶工は、薪と粘土が自分の好みに合う所に居を定め、そこに小屋と窯を作り、近隣の人のために雑器や土壷、時に大きな容器を作ったりするが、薪がなくなればまた別の所へ稼ぎ場所をかえる。鍛冶屋も同じ行動様式で採鉱が非常に困難になるとそこを離れて行く。したがって、大きな工場や本格的な採掘場・その名に値するほどの作業所などできはしない。簡単に風に吹き飛ばされて、雨が漏れやすい継ぎ目の悪い板小屋。それにひびが入って壊れそうな窯や炉、これが全てである。したがって利潤はほとんどない。金のあるような人はこのような産業へ投資しようとは考えもしない

朝鮮の国内商業がほとんど発達していないことは容易に結論づけることができる。自分の家に店を開いている商人はごくわずかで、ほとんど全ての取り引きが市で行われている。また商業の発達に大きな障害になっているものの一つに不完全な貨幣制度がある。金貨や銀貨は存在せず、流通しているのは銅銭しかない。そのため相当量の支払いをするためには、一群の担ぎ人夫が必要となる。というのは、200フラン分の銭が1人分の荷物になるからである。北部地域ではこの貨幣すら流通していないのである。

朝鮮の金利は法外である。年3割の利子で貸し付ける人は、ただで与えるのも同然だと思っている。もっとも一般的なのは5割・6割で、時には10割もの利子が要求される。商取引におけるもう一つの障害は、交通路の惨めな状態である。この国は山岳や峡谷が多いのに道路をつける技術はほとんど知られていないのである。



李朝末の商業の発展段階を窺い知ることのできる旅行記。著者は、『この国では商業という概念が行商人の商いに限られている』と低調な商業活動を記している。
「朝鮮紀行」 イザベラ・バード 1897年 (時岡敬子訳 講談社学術文庫 1998年)
李朝末、日清戦争の頃の朝鮮旅行記。漢江という川を舟で旅した話ほか。) ( )は管理人注

通貨に関する問題は、当時朝鮮国内を旅行する者を例外なく悩ませ、旅程を大きく左右した。日本の円や銭はソウルと条約港でしか通用しない。銀行や両替商は旅行先のどこにも一軒としてなく、しかも受け取ってもらえる貨幣は、当時公称3200枚で1ドルに相当する穴あき銭(注*日本の寛永通宝のような貨幣)以外になかった。この貸幣は数百枚単位でなわに通してあり、数えるのも運ぶのも厄介だったが、なけれぱないでまたそれも厄介なのである。100円分の穴あき銭を運ぶには6人の男か朝鮮馬1頭がいる。たった10ポンドなのにである! わたしが旅行の前半に雇った舟はバラスト(注*舟を安定させるために船底に積む重し)が穴あき銭で、わたしは円の銀貨をつめたかぱんを持ち、自分の運のよさをあてにすることにした。そして今回の旅では、それもまんざら役に立たないわけでもなかったのである。
(中略)
銀を穴あき銭に両替しようとしたが、いつも金庫は空っぽだといわれ、誰も銀など信用してくれないか、そもそも銀というものを知らないかで、必需品がなにも買えなかった。さいわい人口1850人の村マギョに着いたときは市の日で、行商人がいそいそと銀35円を1円対3000枚のレートで穴あき銭に替えてくれた。穴あき銭を舟まで運ぶには6人の人手が必要で、舟はまた重たい荷を積むことになった。 (注*1枚3.75gの中国銭と同じと仮定すると両替した35円分の銭10万5千枚は394kgにもなる!!(爆笑) 1円銀貨35枚では0.94kgである)
(中略)
ある大きな村でわたしたちは週に一度立つ市に出くわした。地域の交易について調べてみるのは毎度のことで、調査の結果、通常の意味での「交易」は朝鮮中部と北部のおおかたには存在しない。つまり、ある場所とほかの場所とのあいだで産物を交換し合うことも、そこに住んでいる商人が移出や移入を行うこともなく、供給が地元の需要を上回る産業はないのである。このような状態は朝鮮南部、とくに全羅道でもある程度見られる。平壌をのぞいては、わたしの旅した全域を通して「交易」は存在しない。

このような状況をつくった原因は、朝鮮馬一頭で10ポンドに相当する現金しか運ぺないほど貨幣の価値が低下していること、清(シナ)西部ですら銀行施設があって商取り引きが簡便になっているのに、ここにはその施設がまったくないこと、概して相手を信用しないことである。
(中略)
首都ソウルにおいてすら、最大の商業施設も商店というレベルには達していない。朝鮮ではなにもかもが低く貧しくお粗末なレベルなのである


儒教は商人や職人を卑しい職業とみなしたため、李朝も商業や殖産を軽んじ、経済は停滞した。
「世界の都市物語7 ソウル」 姜在彦 1992年 文藝春秋
そもそも朝鮮の両班政治のもとで産業政策は農本主義であって、商業というのは末業として賎視され、その発展をできるだけ抑制する抑末思想が支配していた。(末=まつ=大切でないもの、つまらないもの、の意)商業というのは末利をうるための詐術によって儒教的な醇風美俗を大いに乱すというのが、抑末思想の理屈である。だから正当な商業利潤さえいかがわしい詐術による末利といい、そういう末利をかせぐ商人たちを「謀利之輩」といって賎称していた。したがってそういう末業を家業とする商人たちが誇りをもって子々孫々にそれを伝えるよりも、売官買職などあらゆる機会をとらえ、手段をつくしてでも両班身分への強い上昇志向を持たざるをえなかった。このことは匠人(チャンイン・手工業者)の場合も同じであって、チャンインが訛ったチャギは蔑視語になった。両班政治のもとで匠人は、「身良役賎」といわれた。身分は良人(常民)であるが、その家業は賎しいということになる。技術軽視である。もともと農業というのは、天候に左右され、したがって天意に逆らうことには限界がある。ところが商と匠は、そういう自然的制約を受けず、自分の計算と技能による独立自尊的な生業である。とりわけ儒教の抑末思想は、商と匠の活動の障害になりこそすれ、プラスにはならない。


李氏朝鮮の国教ともいえる儒教では「君子は労せず」と教えており、額に汗して働く者を卑しんだ。そのため支配階級である両班は労働をすることが全くなかった。労働を卑しむ社会は停滞するほかない。
「悲劇の朝鮮」アーソン・グレブスト 1912年 (高演義・河在龍訳 1989年 白帝社)
朝鮮の学者(両班)は、誰かうるさい人の目に労働と映りうることなら、できる限りそれから遠ざかろうとします。衣服を自分の手で着てはいけないし、タバコの火も自分で点けてはいけません。そばに手伝ってくれる者がいない場合は別にして馬の鞍に自力でのぼるべきでなく、また荒馬から落ちたとしても、誰かがやってきて抱き起こすまでは地面にそのまま倒れていなければならないのです。両班は個人的な商売はやらないのですが、その訳は商売というものがまさに労働であり礼に反するからです。

「朝鮮紀行」 イザベラ・バード 1897年 (時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫)
両班はみずからの生活のために働いてはならないものの、身内に生活を支えてもらうのは恥とはならず、妻がこっそりよその縫い物や洗濯をして生活を支えている場合も少なくない。両班は自分ではなにも持たない。自分のキセルすらである。両班の学生は書斎から学校へ行くのに自分の本すら持たない。

「韓国人、大反省」 1993年 金容雲 徳間書店
李朝末期に韓国を訪れた西洋人がテニスをしている姿を見て、時の皇帝高宗が、「なんと哀れなることよ、この暑い日に汗を流して体を動かすとは。下人にさせればよいものを・・・・』と言ったというエピソードがある。また、李朝時代の絵画には、むしろの上に横たわって長いキセルを口にくわえた両班が、稲穂を片付けて働く農夫の姿をぼんやり眺めている場面がよく見られる。このように労働を徹底して軽視した指導者たちの導く国のありさまはたやすく想像がつく。

「朝鮮事情」 シャルル・ダレ 1874年 (金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫)
(両班は)現在、この国の大きな災厄になっている。なぜなら、両班階級の人口が途方もなく増大したため、彼らのほとんどが極貧におちいり、強奪や搾取で生活しなければならなくなったからである。すべての両班に品階と階級を与えることは、現実的に不可能である。しかし全ての者がそれを望み、幼少の頃から官職の道に向かって科挙の準備をしている。ほとんどの者は、他に生活の方法を知らない。彼らは、商業や農業、あるいはなんらかの手工業によって真面目に生活の糧を稼ぐには、あまりにも高慢であり、貧窮と奸計のなかで無為に世を送る。彼らはいつも借金で首がまわらず、何かちょっとした官職の一つも回ってこないかかと首を長くしており、それを得るためにあらゆる卑劣な行為を尽くし、それでもなお望みがかなえられない場合には飢えて死んでしまう。宣教師たちが知っていたある両班などは、3、4日に一度しか米にありつけず、厳冬に火の気もなく、ほとんど服も着ないで過ごしながらも、いかなる労働に従事することも最後まで拒絶し通したものであった。何かの労働に就けば、たしかに安楽な生活は保障されるであろうが、その代わり両班の身分を剥奪され官吏の地位につける資格を喪失するため、彼らは労働することを拒むのである。

「30年前の朝鮮」 バード・ビショップ 1925年 (「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社より)
読者は朝鮮人の無気力、怠惰、居候(いそうろう)根性、貧しさをつぶさに観察されたことになるが、このために朝鮮の独立はきわめて困難で、将来を望むことが難しい。(中略)朝鮮を亡ぼすもっとも大きな、普遍的な原因は、国民が挙げて独立独行の精神に欠けていることである。健康な体格を持ちながら、親族知己に少し富裕な人があればその家に居候して、終日何一つの仕事もせずに暮らしている。(中略)居候も朝鮮人の居候根性は徹底したものである。京城市内の高官、裕福な人の家には、屈強な大の男が相当の教育がありながら数十人となく寄食している。三度三度の飯も食わしてもらえぱ、煙草一服も人のものを吹かしている。見苦しい話だ。

このような両班支配のもとでは産業の発展など到底不可能である。両班は極端に肉体労働を蔑み、殆ど働かなかったので、手足として使役する奴婢(奴隷)を必要とした。李氏朝鮮の国力衰退の根源は、牢固たる階級差別制度にあった。総督府は両班や奴婢などの身分差別を禁止して朝鮮人の意識改革をおこない、近代国家の「国民」を創出した。

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▼ 会社設立の制限
朝鮮総督府は会社令を公布し、会社の設立のときは朝鮮総督の許可がなければならなくなった。これは韓国人の企業活動を抑制するための措置だった。(中略)1910年に会社令を制定し、韓国人の会社設立を抑制した。そのため、日本人会社の成長が韓国人会社を上回った。1911年と1917年を比較すると、韓国人の資本金は17パーセントから12.7パーセントに下がったのに比べ、日本人の資本金は32パーセントから83.2パーセントに上がった。(中略)日帝は会社令を許可制から申告制に変えた、そのため、日本の財閥の資本が浸透し、日本人が経営する会社が設立され、韓国の産業と韓国人の経済生活は、日本人によって支配されるようになった。 (韓国の中学校用国定歴史教科書1997年版より)
併合当時は鉱山経営などで第三国の資本がかなりあり、それが買収などで日本人の資本と置き換わって日本人資本比率が上昇したという面もある。
Link 神戸大学付属図書館 / 朝鮮と外人鉱業権

「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 1989年 原書房
朝鮮総督府は株式会社を届出制でなく許可制としたが、これは民族資本の活動を抑圧し、日本資本の進出を容易にしたものとして非難されている。これは民族資本の活動を抑圧し、日本資本の進出を容易にしたものと非難されている。そのような結果をもたらしたことは事実であろうが、この措置は朝鮮人の経済活動の抑圧のみを目的としたものとは思われない。

他人の資本を広く集め、しかもその出資者は、事実上その経営に関与できない株式会社は、社会、経済の発展していない所ではしばしば詐欺目的のため設立され、あるいはそういう結果におちいることが少なくない。総督府が許可主義をとった理由として『株式会社の健全な発展を期するため』と述べているのは、詐欺目的の乱立により、朝鮮民衆が被害を受ける恐れがあることと、株式会社制度そのものが、信頼を失うことを心配したことにもよろう。植民地統治は、その社会は未開であり原住民の知識水準は低いというのが前提であるから、植民地統治の初期において、みだりに株式会社を作らせないという方針はそれなりに合理性をもっているのである。

明治初年、日本も株式会社制度を導入した際、当初は免許主義をとっており、1899年の商法制定の折、準則主義、すなわち用件が整っておれば誰でも設立することができるようになった。朝鮮でも統治開始10年後の1920年、許可主義は届出主義となり、経済活動の可能性は法律上は平等化されている。


「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社
事実上、農耕民族の朝鮮人は、株式会社組織という伝統も理解も理念もなかった。今日にいたっても株式会社というより家族会社が主流である。他人といっしよに会社をつくらないだけでなく、つくってもすぐ騒動が持ち上がり空中分解してしまうのであった。当時、財政顧間として農工銀行の株式を整理した関係者によれば、当時の朝鮮人のほとんどが株式会社とは何たるかを知らなかったし、民族資本云々という話どころではない社会なのだという。株式は募集ではなく、各地方の面長(村長)がそれぞれの地方有力者に債券を割り当てて会社をつくったぐらいで、当時の朝鮮社会では他人といっしょに会社をつくるなどということはもってのほかであり、朝鮮人で独自の事業計画を立てて、会社令によって申請した人は一人もいなかった。(『日本統治下における朝鮮の法制』友邦協会)

「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 平成9年 国際企画
さまざまな政策を実行するための財源として、日本政府は併合直後から毎年1000万円から1900万円の補充金を一般会計から朝鮮総督府特別会計に補給し続けた。

日本は産業振興にも力を入れ、併合後20年にして、工業製品出荷額は約16倍になった。工業の種類も軽工業中心から重化学工業中心へと徐々に移行し、昭和15年には工業生産額のうち重化学工業の占める比率は57.8%にも達した。こうした産業を興すためには資本(資金)が必要であるが、官民とも疲弊していた朝鮮側はその資本をほとんど準備できなかった。必然的に産業資本は90%までが日本本土からの投資であり、朝鮮民族資本の蓄積によるものは僅か10%にも至らなかった。企業はボランティア団体ではないため、出資者にその利益が廻される。このため、日本は本土の大会社を進出させて朝鮮から経済的搾取を行なったと批判されるのだが、それではどうしたらよかったのか。日本が資本を投下せず産業を興さなければよかったのか。

どちらにせよ、農業振興や産業育成などによって朝鮮の人々の生活水準は徐々に上がり、大正9年には法人所得税をはじめて徴収できるまでになったのである。(併合時の韓国の国民経済は破綻しており、朝鮮人から税金を取ることもままならぬ状態にあった。このため日本は併合後、10年間所得税を免除した。)このように日本からの多額の投資・援助や指導によって、朝鮮は飛躍的に近代化し、国民生活も僅かずつながらも豊かになった。


李朝時代の状況を知れば、朝鮮人が株式会社制度に信用を置かなかった理由が分かり、総督府の統制下に置いた理由が理解できる。
「朝鮮事情」 シャルル・ダレ 1874年 (金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫)
朝鮮の両班は、いたるところで、まるで支配者か暴君のごとく振る舞っている。 大両班は、金がなくなると、使者をおくって商人や農民を捕えさせる。 その者が手際よく金をだせば釈放されるが、出さない場合は、両班の家に連行されて 投獄され、食物もあたえられず、両班が要求する額を支払うまで笞(むち)打たれる。 両班のなかでもっとも正直な人たちも、 多かれ少なかれ自発的な借用の形で自分の窃盗行為を偽装するが、 それに欺かれる者は誰もいない。 なぜなら、両班たちが借用したものを返済したためしが、いまだかつてないからである。 彼らが農民から田畑や家を買う時は、ほとんどの場合、支払無しで済ませてしまう。 しかも、この強盗行為を阻止できる守令(郡県の長官)は、一人もいない。

「朝鮮紀行」 イザベラ・バード 1897年 (時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫)
搾取の手段には強制労働、法定税額の水増し、訴訟の際の賄賂要求、強制貸し付けなどがある。小金を貯めていると告げ口されようものなら、官僚がそれを貸せと言ってくる。貸せばたいがい元金も利子も返済されず、貸すのを断れば罪をでっちあげられて投獄され、本人あるいは身内が要求金額を用意しないかぎりムチで打たれる。こういった要求が日常茶飯に行われるため、冬のかなり厳しい朝鮮北部の農民は収穫が終わって二、三千枚の穴あき銭が手元に残ると、地面に穴を掘ってそれを埋め、水をそそいで凍らせた上に土をかける。そうして官僚と盗賊から守るのである。

これは搾取などという手ぬるいものではない。ならず者によるカツアゲだ。株式会社設立の許可制度の背景にはこういう社会状況があった。

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